定型的な毒親持ちの結果
1ヶ月と少しぶりに思い立って書くことにしました。ゆづるです。
書くのはいいけどそもそも午前五時という時間に僕は何をしているんでしょう。もう暫くすれば夜も明けるというのにポチポチと文を打ってます。
生活リズムが完全に狂ってるんです。もうどうしようもありません。
今回は今までと変わって少し真面目に重たく、更には暗い話をしようかと思います。
僕の幼少期の両親についてです。
僕のTwitter(名前検索すれば一発で出ます)を見てる人(がこのブログを読んでいるかは定かではないですが)はご存知かもしれませんが、入間ゆづるという人間はだいぶ歪んでいます。
ひねくれている上にすぐ鬱になる、字面だけみると関わらない方が良いと判断できるような思考をします。
対人において必要な場になれば猫被りくらい出来ますが、それを自然にこなせる訳では無いので社会へ出て人と接するのをストレスと感じる日々です。
自分自身それを良しとは思いませんが、それでもバイトへ行く前、学校へ行かなければならない日の朝なんかは腹痛や、酷いときではそのまま吐いてしまって動けなくなってしまいます。
大袈裟でもなくそれが僕の日常です。
見ず知らずの人の怒鳴り声を聞くだけで足がすくんで息がしずらくなり、それが自分に向けられているものとなれば手の震えが止まらなくなったりする。
軽くパニックに陥ることもあり、その沸点は低く危うい。
元からこうであった訳ではありません。
実際に腹を割って話せる関係の人達の前では調子よく煩いくらいに喋ります。
ただどうしても一人でいるのが楽であるし、ストレスが少ないと感じます。
自分がどこか人よりも対人関係を築くにあたって「歪」であると感じるようになったのは、小学校低学年くらいからであったと思います。
小学校へ入ったかどうかの当時、両親が離婚し僕は母に引き取られ母子家庭で生活していました。
いま思えば、よく言う女手一つの苦労からの八つ当たりだったのだろうと考えられますが、母は、僕の成すことに納得がいかないと怒鳴りつけながら殴る等 暴力を振るって「躾」をする事が多々ありました。
その頃は「この人に捨てられたら生きていけない」と、理不尽な叱責でもへらへら笑って母に媚びていました。
何も心の拠り所とするものがない毎日の中で心が麻痺していたのでしょうね。
また、父の方には会う機会があるにも関わらず打ち明け 頼ることも出来ませんでした。
何故 言えなかったのか今でも理由を上手く言えませんが、恐らく、母が従兄弟だと僕に紹介した男と繋がっていたり僕に対する暴力について あくまで母を愛していたであろう父にどうしても伝えたくなかったのだと思います。
それこそが苦痛の理由なのに、それを言わずに辛いと言えるだけの脳がなかったのもあるかと思いますが。
実際に母がその「従兄弟」を愛していたかは僕の知り得ないことですが、その頃の僕にとって 母とその男が一緒になっている姿は異物としか映らなかったです。
朧気な記憶にある父と母の仲良く笑いあっている図が、その男と母ではないただの知らない女として塗り潰されて上書きされるような感覚でした。
それから程なく、僕は勉学の為と称して母方の祖父の国へ半年ほど留学として追いやられました。
親族と言えど言語の違いから言葉の通じない人らに囲まれる生活は、新鮮さと心細さと、言葉の分からない僕には話しても無駄だと次第に構われなくなり取り残される現実でした。
祖父や叔父一家は優しくこそしてくれましたが、どこかぎこちなく接せられる中で自分の居場所はないように感じていました。
あくまで僕の扱いは「母の子供」としてであって、僕自身を気にかける人はいなかったように思います。
半年程してやっと日本へ呼び戻して貰えたと思ったら、母は嬉しそうな顔で僕に合わせたい人がいるからと、また従兄弟の男でもない見知らぬ男を紹介してきました。
その人が今の義父であり弟の父親ですが、最初の優しそうな印象と違い いざ生活を共にしてみれば大したことない裏表の差が激しい人でした。
あまりに外面が人当たりのいい爽やかな人と言った感じで、僕も対人に関しては 接し方話し方を参考にしましたがそれでも弟が産まれてからの僕との扱いの差に、とうとうこの歳まで好きにはなれていません。
風呂へ入る為に洗面所で着替えているだけでも、リビングから義父が「お姉ちゃんみたいになっちゃ駄目だよ」と弟に囁く声とそれに「うん」とさも当たり前かのように応える弟の返事が聞こえてくるような家。
成績表が返される度に前回より何点落ちたと怒鳴る母。実際は仕事場でのストレスなんかも含めて僕を殴っているんだろうなと分かっていても、少しでも痛い思いをしないようにと母の意にそうように言葉を選ぶ僕。
上京して一人暮らしを初めてからようやっとあの頃の自分はこういう精神状態だったんだなと振り返る余裕ができましたが、それでも実家にいた頃についてしまった癖はどうにもなりませんでした。
母が少し駆け足で階段を上がり僕の部屋へ向かってくる時は大抵ドアを開けざまに叩いてきましたし、だからというか、そのときの癖で隣人の玄関の開閉音にビクつくような生活を送っています。
俗にいう毒親持ちなんでしょうね。
幼少期から事ある毎に「産まなきゃ良かった」「私の子じゃないみたい」と言われ続け、容姿をなじられ、こんな環境で真っ直ぐ強かに生きられるような人間にはなれっこないです。
義父のように背の高い男性がふいに側にくると体が勝手に強ばったり人の視線に晒されるのが怖かったり。
生活に支障ありまくりで難儀な人格が形成されてしまいました。
人の顔色を伺って行動するのが根についてしまった分、会話の中でも言葉1つ1つに気を使ったり 人と話すだけで疲労感が半端ないような生き方をしています。
本当に親には殺意しかありません。あんたらのせいで僕は今日もこんなに生きにくいです。
何て事してくれたんだテメェ。
と、言えるような仲でもないですけどね。
一時は本気で殺してやろうと夜な夜な策を練ったこともありましたが、わざわざ自分で手にかけるよりは自分が死んだ方が楽だと考え直して自殺方法を片っ端から調べてました。
実際は、痛いのは嫌だし、やっぱりあいつらにも痛い目合わせてからでないと…ということで中学の頃からは殴られる度に本気で殴り返してました。
喧嘩するほどなんとやらとかいうものではなかったです。少なくとも僕の方が殺す気でやり返してたわけですから。
高校受験の頃にもなると僕に向けられる言葉は「勉強しろ」「恥をかかせるな」「出来損ない」くらいのもので、変わるものと言えば+αの「子は親に孝行するものであり(うんたらかんたら)」だのといった有難い説教。
誰のお陰で生きていられると思ってるのという台詞には流石に、勝手に産んどいて何言ってんだという気持ちを禁じ得ませんでしたが、まあ総じて母親というあの人は変わらず話の通じない人間のままです。
あの人の存在自体が僕にとってのトラウマであり、ようやっと最近は僕の話を聞けるようになったのかなと思う節々はありますが、まあ関わらずが吉なので早々に完全な独り立ちをするか それが出来ぬならさっさと消えようと思っています。
こういうことを言うとぎゃあぎゃあ煩く言う人達もいるかと思いますが、僕からすると、生まれるも自分の意思でないのに死ぬのも罪深いとされるなんておかしな話ですよね。
といった感じです。
なんだかんだ死体の処理が面倒ってだけの問題じゃないのかなぁと思うのは流石に不謹慎なのでしょうか。
僕には分かりませんが。
中途半端なところですが、今回はここらでお終いにしておこうとおもいます。
長々と書いてる上に昨日から寝ずの現在午前7時です。
馬鹿ですよねぇ。なんで起きてんですかね。
まあこういうことをグルグルと考えていたからなんですけどね。
とりあえず そういうことで。
次回はまたいつものようなどうでも良いようなことをのんべんだらりとぺらぺら書きたいなと思います。
連続で重たい話は胃もたれしちゃうものね。
ではでは。